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講義: 4_15 顕生代6 新生代
掲示板: 講義の終了・ヒトの業・感情と本能
(2004.03.18)
さて、2年間にわたってつづいてきた「Terraの科学」も、いよいよ最後の講義となりました。最後は、私たち人類が生まれて、そして生きている新生代という時代です。
■講義 4_15 顕生代6 新生代
▼1 新生代とは
1 時代区分
新生代(しんせいだい)という時代は、3つに分けられています。古いほうから、
古第三紀(6500万年前〜2330万年前)
新第三紀(2330万年前〜164万年前)
第四紀(164万年前〜現在)
の3つです。

第四紀は、時代の中でも短いものです。しかし、短い時代でも、私たち人類にとっては、いちばんかかわりの深い時代です。
それぞれの時代は、さらにこまかく分けられています。
古第三紀は、
暁新世(6500万年前〜5650万年前)
始新世(5650万年前〜3540万年前)
漸新世(3540万年前〜2330万年前)
に分けられています。
新第三紀は、
中新世(2330万年前〜520万年前)
鮮新世(520万年前〜164万年前)
に分けられています。
第四紀は、
更新世(164万年前〜1万年前)
完新世(1万年前〜現在)
に分けられています。
時代が、現在に近づくにつれて、過去の情報もたくさん読みとることができます。ですから、私たち人類にかかわりの深い第四紀は、短い時代なのに、2つに分けられているのです。
2 新生代の概要
新生代は、中生代の末の大絶滅(K-T境界の事件)と、中生代と比べて寒い気候(寒冷化(かんれいか)といいます)によって、生物の進化にとって、おおきな影響がありました。
新生代の特徴をあげると、
・中生代末の大絶滅(K-T境界)
・哺乳類の多様化、大型化
・被子植物の多様化
・寒冷化
・人類の誕生
というものがあります。
これらを以下で、くわしくみていきましょう。
▼2 哺乳類と被子植物の多様化
1 多様化の要因
新生代に入って、哺乳類(ほにゅうるい)と被子(ひし)植物の多様化がおこりました。その原因として、
・中生代末の大絶滅
・新生代の寒冷化
の2つが考えられます。
・中生代末の大絶滅
中生代末の大絶滅とは、K-T境界の事件のことです。K-T境界の絶滅については、前回の講義でくわしく説明しました。
たいせつなことは、中生代に生きていて、地球の多くの環境を、わがもの顔で支配していた生物たちが絶滅したということです。K-T境界を生きのびた生物は、地球の環境を自由に使えることになったのです。ですから、いろいろな環境に、いっきに進出をしていったのです。それが多様化をもたらしたと考えられます。
・新生代の寒冷化
古第三紀のはじめのころから(約5500万年前)から、地球の気候は寒くなり続けています。大きな気候の変化としてみると、現在まで寒冷化への変化はつづいています。その原因は、よくわかっていません。
2 哺乳類の多様化
中生代は、温暖な気候でした。新生代は、寒冷な気候になりました。ですから、生物は、寒さに強いものが有利となります。
動物では、温度変化につよい体温を一定にたもてる能力(恒温性(こうおんせい)といいます)をもった生物が、生きていくには有利となります。新生代におおいに栄えたのは、恒温性をもっていた哺乳類でした。
哺乳類は、石炭紀後期(3億5000万年前)にあらわれた哺乳類型爬虫類(はちゅうるい)とよばれるグループから分かれたと考えられています。最古の哺乳類の化石は、中生代の三畳紀とジュラ紀の境界(2億年前)ころにみつかっています。
しかし、中生代は、恐竜の仲間が地上を支配していたので、哺乳類はほそぼその生きていくしかありませんでした。恐竜たちのいなくなった新生代は、哺乳類の進化につごうのより時代だったのです。
鳥類も恒温性をもっています。しかし、住みやすい陸地は哺乳類が支配しました。ですから、鳥類はしかたなく空へ進出しました。鳥類は飛ぶことで多くのことを犠牲にしなければなりませんでした。哺乳類の地上の支配の少ないところでは、エミュー、ダチョウ、キウイ、ドウドウなどの飛ばない鳥も生まれています。
3 被子植物の多様化
中生代までは裸子植物が栄えていました。被子植物とは裸子植物と違って、種をつくる部分が(子房(しぼう))がなんらかのかたちで守られているのようなしくみを持っています。被子植物は裸子植物から進化してきたと考えられています。
被子植物の最古の化石は、白亜紀前期(1億4000万年前)のものが見つかっています。白亜紀の終わりごろから新生代前期にかけて、被子植物がおおいに発展しました。
被子植物の発展はおもに、陸上でした。陸上植物は、陸地の気候変動を非常に受けやすいので、多様な被子植物を生み出したのは、多様な陸上の環境によるものなのかもしれません。
▼3 気候変化
1 暗い太陽のパラドックス
太陽が明るくかがやているのは、核融合(かくゆうごう)をしているからです。星(恒星(こうせい)といいます)の中での核融合は、時間ともに変化していくことがわかっていきました。つまり、太陽の明るさ(光度(こうど)といいます)が、時間とともに大きくなっていくのです。
このような太陽の明るさの変化が、地球の環境に大きな影響をあたえることを最初に考えたのは、カール・セーガンとミューレン(Sagan &
Mullen, 1972)でした。カール・セーガンは「核の冬」でも登場した科学者です。
もしそのような変化が本当におこったのなら、地球は20億年前より古い時代は、地球全体が凍(こお)ってしまうほど寒いという計算結果をしめしました。
ところが、地球には38億年前から現在まで海があったことは、地層の証拠からわかっています。なぜ、このようことが不思議なことがおこっているのでしょうか。
どちらも正しそうに見えるものから、このように矛盾するような結果がでてくることを、パラドックスとよんでいます。カール・セーガンは、これを「暗い太陽のパラドックス(faint
young Sun paradox)」とよびました。
このパラドックスを解決するためには、地球の大気成分が、時代とともに変化してきたと、考えられています。大気成分の中でも、温室効果の大きな二酸化炭素(CO2)が変化してきたと考えれば、「暗い太陽のパラドックス」は解決できると考えられています。
大気の二酸化炭素の量(正確には濃度となります)が、太陽の明るさが増えるにしたがって、減ってきたと考えれば、温室効果の変化で暗い太陽のパラドックスを解決できます。
もしこの考えかたが、本当なら、私たちの未来に大きな問題を投げかけます。
現在は、二酸化炭素が非常に少ない大気成分となっています。20億年前以前は、二酸化炭素の温室効果で、暗い太陽をおぎっていました。20億年前以降から現在までは、大気中の二酸化炭素を減らすことによって、太陽の明るさによる暑さをしのいでいるわけです。二酸化炭素が非常に少ない現在の大気とは、温室効果が非常に少ない状態であるといえます。もはや地球を冷ますことは、二酸化炭素ではできないということです。
太陽光度の変化は、億年のタイムスケールのできごとです。もし、本当に起こっていることなら、億年の時間で考えると、地球の表面の温度は、今後、上がっていくことになります。そして、地球にはその温度を下げる作用はもはや起こりそうもないのです。将来、地球は熱くなり、やがては、あつい星となるかもしれません。
2 新生代の寒冷化
「暗い太陽のパラドックス」は、太陽の核融合の理論からみちびき出された考え方です。いっぽう、地球の表面に残っている地層の記録からは、まったく違った結果が出てきています。
地球の表層の気候は、地層中のある成分(酸素の同位体組成とよばれるもの)や化石や特殊な岩石から、読みとることができます。たとえば、赤道付近では、ラテライトとよばれる土(土壌(どじょう)といいます)ができたり、暖か気候に住む生物の化石がでてきます。このような情報から、地球の過去の環境(古環境(こかんきょう)といいます)を読みとることができます。
古第三紀初期(約5500万年前)から、地球の気候(平均気温でみてます)は寒冷化がつづいています。
この寒冷化は、グラフを見ればよくわかります。そしてこの寒冷化は、現在も、進行中です。この傾向は、今までの歴史をみると、続いていくように見えます。
この寒冷化の原因として、プレートのできる程度(生産速度とよばれます)が低がっているということがいわれています。プレートの生産速度が小さいと、もぐりこむプレートも減ってきます。すると、もぐりこむプレートによってひきおこされる火山活動が減ってきます。火山によって大気にでてくる火山ガスも減ります。火山ガスの成分として二酸化炭素がたくさんあります。その二酸化炭素の量が減ることによって、大気中の二酸化炭素量が減り、温室効果が低がるというモデルが考えられています。
もしこのモデルが正しく、プレートの生産速度が引くままなら、今後も、寒冷化はつづいていくことになります。
ただし、このモデルは、まだ多くの研究者が認めているわけではありません。
▼4 パラドックス
1 事実、理論、モデル
ここまで読んできて、上ていった太陽の光度変化の効果と、地球の表面に残されている歴史と矛盾していることに気づきます。これこそパラドックスです。このパラドックスは複雑です。「モデルのパラドックス」とでもよびましょうか。
太陽が明るくなるという効果をおさえるために、二酸化炭素が減ってきていているという説明をしました。その作用が、今のところ、過剰(かじょう)に起こっているのかもしれません。そうすれば、パラドックスというほどのことはないかもしれません。
しかし、じつはもっと複雑な問題が、気候変動にはあります。事実、理論、モデルというものの関係です。
これまでのべてきた考え方は、いくつも考え方をまとめたものです。地球の歴史というのは、一度きっりのできごとで、現実におこったことであります。しかし、過去を正確に読みとることができないので、こまぎれの記録から地球の過去を推定するしかないのです。
重要なものは、こまぎれの記録、つまり事実であり、証拠です。そして、その次にくるのが考え方です。ここでは、モデルといいましょう。モデルとは、仮説といってもいいでしょう。まだ、正しいかどうかもわからないものです。
現実にあるものから読みとった事実を重視すべきです。重要で、確かなことは、この事実なのです。地球の歴史から読みとれる事実は、ひとつひとつは、ある時代のひとつの点ともいうべきものです。そんな点をたくさん集めれば、曲線とみなすことができます。ここで曲線をひくことは問題ありません。点の集合やそれを連ねた曲線は、点の量や質によって正確さは、違ってきますが、事実の延長線上といっていいでしょう。。
モデルには、事実を説明するために生まれたものと、ある理論から生まれたものの2つがあります。ここでいう理論とは、多くの人が正しいと思っている基本的な考え方です。二酸化炭素の増加と地球温暖化は、事実を説明するために生まれたモデルです。太陽光度の変化は、理論に基づくモデルです。どちらも独自につくられる(独立(どくりつ)といいます)モデルです。このようないくつものモデルの結果がいっちすればいいのですが、今回のように違っていると問題です。どれかのモデルが間違っているか、あるいは別のあたらな説明のためのモデルが必要なのかもしれません。
事実という点をつらねて引いた曲線までは、事実です。しかし、その曲線を関数にしたり、ある説明をつけると、それはモデルとなります。
モデルの正確さは、ばらばらです。モデルの正確さは、使った事実の数や、事実とモデルのズレで、あるていど調べることができます。ただし、正確さと重要さとは別の問題です。また、モデルの適用できる範囲にも注意が必要です。
過去の平均気温の変化や大気中の二酸化炭素の変化は、事実と考えていいものです。過去の二酸化炭素の変動と、気温の変化は、カンブリア紀以前では、それほど差がありませんが、カンブリア紀以降は、気温変化のほうが正確です。しかし、人類が直接大気中の二酸化炭素を測定をはじめた1960年ころよりあとでは二酸化炭素のほうが正確です。そのようなことも考えに入れておくべきです。
点から線として、地球環境を読みとっていくと、現在まで地球は寒冷化してきました。白亜紀の暖かいときと比べて、平均気温で10℃ほど下がっています。この数値は正確でないかもしれませんが、寒くなっているという傾向(曲線)は、点を線として読みとった事実です。
過去の事実の点から生まれた曲線は、未来まで使えるという保障がありません。ですから、将来もこの傾向が続くと考えたくなりますが、根拠はありません。それは、寒冷化の原因のいいモデルがないためです。プレートの生成速度かもしれませんが、正確さにかけるモデルです。
地球を暖める作用として、太陽光度の変化というモデルは、理論から生まれたもので、時間の制限はつきません。ですからこのモデルが正しければ、現在から未来においても利用できるものとなります。太陽光度の変化のどあいと、地球の反応など、まだ、わからないことがいっぱいあります。これらを調べていかなければなりません。
1960年以降の大気中の二酸化炭素の変化は、事実です。その事実から、温暖化を心配してるのです。しかし、その二酸化炭素の温暖化のモデルは、じつはそれほど正確なものではないのです。まだ、研究者の間でも結論が出ていません。ですから、暖かくなるというモデルの裏づけありません。となると、「暗い太陽のパラドックス」をといたモデルも正しいという保障がないというべきです。
人類が問題にしている地球温暖化というのは、40年とか50年の単位の二酸化炭素からでてきた傾向からつくった未確定のモデルなのです。地球の億年の単位の二酸化炭素は、減少傾向です。これは、見るスケールの違いから生まれたものです。パラドックスとはいえません。二酸化炭素は大きくは減少傾向にあるのに、細かい変動がその中にあるのです。その細かの変動を地球環境問題の根拠として取り上げています。なにがたいせつかということをよく考えておく必要があります。
その判断は、その傾向を説明するモデルの良い悪いで考えるのが、科学的であるはずです。しかし、そんなことを無視して、温暖化問題だけが一人歩きをしています。困ったものです。
2 傾向
さて、以下では上の話の矛盾したことをいいます。これはパラドックスではなく、心情(しんじょう)的なものです。
地球の億年、万年の単位の温度変化の傾向を、いいモデルや理論がないかといって、無視しよいものでしょうか、ということです。点の数がおおく、それからひいた曲線は、なめらかのものとなります。すると、そんな曲線から、ほんのちょっぴりですが、未来を見ることができます。
また、過去から現在までの現象がモデル化されていないからといって、過去から現在までの傾向を無視すると、もしかすると将来、大きな間違いをするかもしません。やはり未来は過去から現在の延長の上にあると考えたくなるのが心情です。
となると、地球は、明らかに寒冷化に向かっています。それは、事実としてある、億年、万年、そして千年の単位でみられる現象です。これは、平均気温として数値としてみることができます。換算(かんざん)の正確さはスケールによって違いますが、傾向はそのまま見ることができます。もちろんこまかな変動が記録されています。しかし、その細かな変動の中に現在の二酸化炭素の変動は納まってしまいます。
私たち人類が問題とすべきは、もしかすると温暖化ではなく、寒冷化ではないでしょうか。そんなパラドックスともいえるようなものがでてきます。こんなパラドックスをとくためにも、研究していくことが重要です。
■掲示板: 講義の終了・ヒトの業・感情と本能
・講義の終了・
長かった講義もやっと終わりです。ほっとしたような、寂しいような気がしがします。思い至るさまざまなことは、次回の最終講義で語りましょう。
・ヒトの業・
前回に引き続いて、Nihさんとのメールのやり取りの紹介です。今回は、「ヒトの業」と「感情と本能」についてです。まずは、「ヒトの業」からです。
「「生命の尊さ」も、「地球環境」と同類の問題のような気がします。答えのないというか、考え方、「エゴと大儀」の問題だと思います。私に答えが出せません。
整理すると、3つの点で問題に突き当たります。
1つ目が、自分を中心として考えた時のものです。「個人」レベルの「生命の尊さ」は、だれもが理解でき、実際おこなっています。また、これは、論理として整合がとれていると思います。個人の生存を守るためというと、他の生命と対等であります。食べるためには他の生命を殺さなければなりません。菜食主義者も植物を殺します。自分が生きるためには、殺さなければなりません。不条理ですが、必要悪としてしょうがないことです。これは、すべての従属栄養型生物が、おこなっていることであります。「家族」を守るというレベルであれば、まだ、他者を殺してまでの「生命の尊さ」理解できます。「家族」の中には、弱い存在もあります。ですから、夫や親として、弱い妻や子供、老いた両親たちを守る必要があります。これは、身近な「個人」に近いものの生存を守るということになります。ところが、「個人」から「多人数」になると、その論理性は、怪しくなります。「社会」や「ヒト」としての行動になると、ヒトは、生存のためだけでなく、必要以上に殺したり、必要以上に食べたり、商品として殺しています。こうなると、「生命の尊さ」という「大儀」は薄まっていきます。どこで大儀の「ある」と「なし」の境界線を引くかは、価値観や考え方によって変わってきます。でも、「大儀」はなく、「エゴ」が浮き彫りにされます。
2つ目の問題は、ヒトは、生命に価値をつけている点です。ヒトはその価値に基づいて、いい生物、悪い生物、殺すべき生物などの区別をしています。「そんなことはない」と言われそうですが、実際に、あるいは当たり前におこなっています。一般的に「生命の尊さ」といえば、誰もが、納得してしまいます。しかし、ヒトは、いとも簡単に、食べるため、生きるためにではなく、殺してしまいます。たとえは、今問題の鳥インフルエンザ・ウイルス。これは、抹殺すべき存在として、鶏ともどもウイルスを殺してしまいます。もちろん、抵抗はあるでしょうが、検疫上仕方のないことと誰もがおもっているでしょう。その他の疫病のもととなっているような病原体、バイキンとよばれる「生命」は、抹殺すべき存在です。つまり、ヒトに害するものは、殺してもいい存在、殺すべき存在となっているのです。これは、上で述べていた「生存」に基づくものです。そして、「個人」のレベルに危機が迫る前に先手必勝で殺してしまうのです。殺菌するということは、他の生物も殺してしまいます。たとえヒトに害する生物であっても、「生きている」ということにおいては、「ヒト」対等の存在理由をもっているのではないでしょうか。これも、仕方ないことでしょうか。それとも、文明や科学を持ったためにおこる「大儀」ある殺戮でしょうか。しかし、「生存」や「大儀」と関係ないところで、ヒトは、殺しています。田舎の道で、アリや小さな生物を踏まずにあることは困難です。だから、意図せず殺すこともあります。これは、仕方ないこと、どうしようもないことです。これを避けては生きてはいけません。「大儀」がないですが、「エゴ」もない殺戮です。でも、これは、ヒトだけでなく、他の生物も同じことをしています。ですから、生存からうまれる価値観のない殺戮です。
3つ目の問題として、多数で、小さいと命の価値は下がるという問題です。ヒトは、自分から、かけ離れたサイズであればあるほど、殺すことに対抗が減っていきます。大きいものは数も少ないし、殺しにくいので、対象となりません。ですから、小さいものに対して適応できる話です。ウイルスのように小さいものは、たとえヒトの生存を脅かさないにしても、意図的に、殺すことに抵抗はあまりありません。シロアリやゴキブリでも、同じような感情を抱くでしょう。殺す理由をつければ、殺すこともできるるでしょう。しかし、クワガタムシ、チョウ、金魚、熱帯魚となるとどうでしょう。かわいがっている人には、自分のものでなくても、無碍に殺すことに抵抗を感じるでしょう。ドブネズミ、カラスなどは、飼っている人もいるでしょうが、殺すことに抵抗がない人が多いでしょう。しかし、似た大きさのハムスター、ウサギはどうでしょうか。
ネコ、イヌ、イルカ。大きさが大きいほど、殺すことに抵抗を感じるでしょう。いや、それなりの理由がなければ、殺せません。同種、つまりヒトを殺すことは、どんな事情であっても大きな罪となります。私には、自分たちを中心にして、他の生命に対し、無意識に価値判断しているように見えます。
この3つの問題は、おっしゃるように根本には、「人のエゴ」があると思います。「エゴ」の通じる範疇をこえて、ヒトは、「エゴ」を通しているような気がします。ヒトは、大きな力を持ちすぎたようです。だからこんな問題に突き当たるのでしょう。もしかすると、ヒトも生物であるので、答えが出ないかもしれません。でも、考えなければなりません。悩まなければなりません。それは、必要以上に殺し続けているための「業」かもしれません。」
というものでした。
・感情と本能・
Nihさんへのメールで、次は「感情と本能」についてです。
「私は、「生命の尊さの根底」にあるのは、「かわいそう、かわいい、などの感情」もさることながら、生命すべてが持っている「本能」のような気がします。人間の場合、「本能」が直接現れることを避けて、「感情」として、弱い状態として現れているいるような気がします。「本能」から「感情」となり、「生命の尊さ」という「思考」を生み出しているのではないでしょうか。「本能」は、食欲、性欲、自己防衛など、いろいろな言葉で表されるでしょうが、「自己の生存」と「子孫の存続」など、すべての生命の共通することが、根底にあるのではないでしょうか。本能をむき出しにすると社会生活が営めないので、「感情」として、人の「本能」的行動をゆるく制御するすべを身につけたのではないでしょうか。やはり、ヒトも、動物であり、生命です。でも、ヒトは、社会性や、文明や科学を身につけた生物として、種としてる自己防衛本能から、「本能」をオブラートに包む「感情」というものを発展させたのではないでしょうか。
以上、私見でした。」
というものです。
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